代表の内田 力は1969年に埼玉県久喜市で生まれました。
地元の小・中学校を卒業し、高校は県立の工業高校の建築科に入学しました。
理由は将来、物造りの仕事が良いと考えていたからだと思います。
高校時代の思い出というと、2年生の夏休みに、自転車で北海道まで行き、3年の夏休みには九州の鹿児島まで自転車で行きました。とんかつ福芳さんの社長には特別銭を頂き、ありがたく記憶に残っております。
どちらも一人旅で、今思うと、なにか人と違った事を達成したいという気持ちが強かったのでしょうか。
実際、自分が親になると、携帯電話もない時代に16歳で一人旅とは、ずいぶん無謀なことをしたと思います。今となれば良き思い出です。
各地のユースホステルという共同民宿に泊まって、いろいろな方にお世話になりました。
泊まるところを教えてほしいと尋ねたら、熱心にタウンページで探してくれたおばちゃん。
大阪で知り合った方は鹿児島から着ており、私が鹿児島に到着したときに電話したら快く泊めてくれた大学生のお兄さん。
銭湯でシャンプーがなく、頂戴させてもらった広島?のおじさん。
鹿児島についたらとても目が痛くて、何かと思ったら桜島の火山灰が舞っていたり。
甲子園球場の前で写真を撮ったり。
どれも良い経験をさせて頂きました。
学校の勉強も大切ですが、若い頃の一人旅は社会勉強として財産となりますね。
昔から自分で決めたことは行動しないと気が済まない性格でしたので、
良くも悪くも、今、工務店を営んでいることには役に立っているかもしれません。
その後、埼玉県内の大学の建築学科に進み、
全国から集まってくる友人が出来たのもとても財産となり、卒業後は県内の注文住宅の建設会社に現場監督として入社しました。
入社後は社会人として右も左もわからず、
ただ毎日、先輩の指示に従う日々が続きました。
現場監督とはいっても、最初の2年くらいは職人さんの手伝いや、
現場の草刈、掃除がほとんどです。
建設業独特の『盗んで覚えろ』の世界ですから、
本人のやる気がなければ、ずっと現場は任せてもらえません。
同年代の他業種の人はスーツを着てどんどん仕事を覚える中、
肉体労働と雑用では、あせりを感じたこともありました。
そんな中、3年目くらいから本格的な新築現場を
補佐的な仕事から任せられるようになり、
毎日、人間味あふれる職人さんや、こだわりの施主様の間で
工期・品質・原価の管理を行うことが面白くなってきました。
私の入社時期はバブル経済が終わりにかけた頃でしたが、
まだまだ景気は悪くない時代で、
私のように有名な大学ではなくても大手の建設会社に入れる時代でした。
実際、友人の中では私が一番小さな会社に入社したことが
疑問に思った友人もいましたが、どうしても大手の仕事の歯車になるより、小規模な会社でも営業や、設計などの仕事にも携われる会社を希望していました。
そのころから30歳位で、独立したいとは思っていましたので、
20代は毎日遅くまで仕事に没頭したように思います。
そして厳しくも人間味のある当時の社長さんを始め、
良き上司に恵まれたことも私にとってはありがたい環境でした。
当時の住宅や土地の価格はまだ高くバブルの影響も残っており、
現在の2倍以上の価格でした。注文住宅の受注件数も多く、
建物だけで5,000万円以上の物件も数多くありました。
そのため地鎮祭はもちろん上棟式や竣工祝いなども盛大に行う施主様も多かったので、技術だけではない、施主様と一体となった家造りは醍醐味にあふれ、大変勉強になりました。
しかしそんな建築業界も不況のど真ん中に突入し、
コストダウンを余儀され建物の価格も当時の半額近くまで下がり、
企画住宅化され、お客様のわがまま(間取りや変更工事の制限など)を
取り入れられない家造りが主流となりました。
そのことは私の本意ではない家造りでしたので、
その頃から具体的に独立を考え出しました。
建設業で独立するといっても当然、リスクもあり資本も必要となります。また不安定な立場にもなりますので、周囲の人には、こぞって反対された記憶がありましたが、33歳の時に独立しました。
厳しい時期もありましたが、いろいろな方のご協力を頂き、今日に至っております。今後も初心を忘れず、ご縁のあった方々に喜ばれる仕事をこなしていく所存です。
何卒ご支援・ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。
代表取締役 内田 力